縷縷夢兎

縷縷夢兎を知ったのは大森靖子さんが衣装として身に纏っていたことからだった。正直「縷縷夢兎」が何なのか私には解らなかった。だってただの服という存在意義を超越していた大森靖子さんが着ていたものは大森靖子さんにしか着れないものだった衝撃だったむせ返るほどの圧倒的な輝きがあったから。

これをつくったひとはお母さんみたいで最高で最悪で素晴らしいほど痛々しいほどでとてつもなく女の子でどろどろで決して人間は分かり合え無いということを誰よりもわかった上でこんなにも寄り添おうとするのかと感じて想像し、涙が出た

言語化など出来るはずがなかった言葉を紡げば紡ぐほどかけ離れていくTLつまらない言葉で固められていくのが耐えられなかった縷縷夢兎が軽くて何も無い中身がスカスカのかわいいに利用されるなんて許せなかった穢されていくような気持ちになってどうしても素直に縷縷夢兎のことをTwitterに書いたりできなかった感想なんか言えるはずがなかったSNSで消費されていく縷縷夢兎の言葉がなんだか憎らしくて恨めしくてでもそれを内包するように縷縷夢兎はその世界に凛として存在していた。どんな素晴らしい言葉を羅列させてもどんな文豪が表した美しい表現も比喩も縷縷夢兎の前だと霞んでしまうと思った。むしろバチバチのJKが使うようなその時代の流行りの言葉で言語化させる方がもっと縷縷夢兎の本質を表せるような気がするのは私だけかな。でも普通でもなくjkだけど全然jkじゃない。どこにもいけない身体の、どこにも馴染めないどんなアンダーグラウンドにも存在できない個体がわたしだから、言語化するなど以ての外のように感じられたのだ。私はじっとわんわん泣きながら縷縷夢兎をみるのだったこの画面を通して。

どんな手を使っても本当は今回の個展に参加したかった私もそこに存在したかった縷縷夢兎と共に、それがたとえ5分でも1秒でも良かったその瞬間に今の自分を持つすべてを使う価値があると思った。

だから今書いている文章は言い訳でしかない、ごめんなさい東佳苗さん。絶対に会いに行って目を見て私の口で直接伝えるので、約束するのでどうかこの駄文を書くことを許して下さい。

愛してること、こんなにもおもっていることが全部嘘になるなんて無かったことにされるなんて、言葉を吐き出して汚すよりも烏滸がましいけど嫌だと思ったのです。

私は今までどんなに大好きな人や愛する人でも嫉妬をしたことが殆ど無かった。執着はしても嫉妬という感情がわからなかった愛について考えるとき嫉妬ということについては本当に他人と理解し合えなかったしまずどんな気持ちかもさっぱりだったから人としてやっぱり欠陥があるんだな、とその度に、ヤキモチを焼く女の子がより可愛くみえてあちら側にはいけないんだと思ったりなんてしていた。

そんなわたしだけど、縷縷夢兎の存在を知り吟味していく中で私は初めて本当の女の子になれた気がした。縷縷夢兎と向き合って縷縷夢兎を心の底の自分の全てでみるとき、決して綺麗なものだけではない。どちらかと言うと心を掻き乱されるし、かなりちょっとだいぶつらいし苦しいし、胸が締め付けられるような感情を味わう。悲しい、さみしい、だけどそれらを全部突き放すことなく、全部包み込んでただ綺麗な表向きだけでつくられたものでは無いからこその絶対的なもはや神秘的とも言えるほどの強烈な輝きを放って言葉をも飲み込むのだと思う。

縷縷夢兎は聖母のようだ。私仏教徒なんだけどさ。

優しいだけではないし、縷縷夢兎が指すのはただの「女の子」ではない。

大抵が指す「女の子」は「女の子」という理想、イメージ想像。それに外れたら女の子じゃねーのかよそれに人によって全然違う、都合よく私たちを縛る。誰かの都合の良いように「女の子」っていう言葉に当て嵌めて殺される。だから私は女子力なんて言葉滅びればいいと思ってる。

縷縷夢兎はひとつの何かになるのではなく、着たひと来た人見た人観る人全てを、それぞれのかたちで寄り添い、それぞれそのひとりひとりのいち個人として存在意義を与えてくれる。最悪で誰にも言えない過去も世界の果てみたいなボロボロのあの日も、私だけにしかわからない素敵な秘密もベッドでバタバタ奇声上げて喜んだ誰かとのやりとりも、つらくて今すぐ死にたい想いを飲み込んだ夜もそれを何度も超えてきたことも愚かさも事象の儚さも大っ嫌いな居場所の無い自分の部屋も全部、どれも欠けることなく存在してよかった、むしろそれがあったからこその輝きなんだよ、と縷縷夢兎は言ってくれる。

そのことは大森靖子さんにも感じたことだ。でも大森靖子さんは一体誰が彼女を包み込んで肯定してあげれるのか、と思ったら私はやるせなくて悲しくて、願った。こんな私がこんな風に思うこと自体おかしくて滑稽で本当に自惚れんなよって感じなんだけど、本当に切実に願った。人生かけて心の底から本当にだいすきな方だから。

でもそんな心配はつまらないことだった。東佳苗さんが大森靖子さんを包み込んで、誰よりも輝かせていて、そして大森靖子さんもまたぎゅっと包み込み返すのだな、と。

 

縷縷夢兎は願いであり肯定であり形無いものでありそしてたしかに存在する世界であり、それはわからないひとには一生わからないと思う、だけどわかったと思った瞬間に消えてしまうものだとも思う、常に変化しキラキラとラメのように雪のようにヒラヒラとしているから、ちゃんとみて、感じて、視覚を通り越して感じなければと思う。

その度に自らの匂いや顔や存在に嫌悪しながらも必死に言葉を紡いでいきたい。言葉は自分の死骸だけど、腐敗するし汚いし死にたくなるけど言葉なんて、と何度も思うけど、その死骸を懸命に積み重ねた先にみえる、「わたしと縷縷夢兎」を私はみてみたいから。

東佳苗さん、この度は個展の開催本当に心よりおめでとうございます。そしてありがとうございます。

都合良く解釈しているところが殆どだと思うし実際に行ってみていないのだから烏滸がましいと思います。

YOURSのことにも何も触れていないことを書いてしまったけれど私なりに考えて感じています、そしてこれからもずっと考え続けます。それがこうだと答えを出すよりも大事なことのように思うから。

また、きっと何度も打っては消して打っては消してを繰り返しながら短い文章に魂を落とし込むように丁寧に言葉紡いで素敵な写真と共に個展に行ったという報告してくれるTwitterの方々。

悔しい気持ちを抱きながらも画面越しにでも感じることが出来て本当に本当に感謝でいっぱいです。

私は行けなかったことはとても悲しいですが、今の自分の境遇や状況を嘆いてはいません。ちゃんともがいてちゃんと傷ついて毎日をできるだけ丁寧に本質だけは見失わなければきっと迷い道でも寄り道しても蟻地獄な日々でも這い上がれると思っていますそれを知っています。

このことを確信に変えてくれたのは紛れも無く縷縷夢兎だと思います。

私はダメダメだけどほんとクズだけどでもきっとこんな私でも誰かの希望になれるかもしれないから、今この生活を編んでいきます。

私も縷縷夢兎を着られるような人間になりたいですそしてわたしもその本質を掴んで、感じて、受け継ぎわたしにしかできないわたしのやり方で素敵なものをつくりたいです。がんばります。

拙い文章で申し訳ありません。

だいすきです。