走馬灯

死にかけたことは何回かあるけど、ちびだったからどれも断片的でしか記憶に無い。意識が戻った時、そこらじゅうが血の水溜まりみたいになってたのには痛過ぎて驚いたけど。弟が自転車に乗って車と正面衝突したときは走馬灯らしきものが見えたらしい。スローモーションに目の前が真っ白になって色々なことが脳内に過ぎった、と言っていた。

本当にそんなことあんのかよって私は正直馬鹿にしてたけど妄想で肥大して話すような歳でも無いし、何しろ弟の言っていることだからそういうこともあるんだろう。

こんな死にかけた時にみる、走馬灯じゃなくて、見慣れた景色やいつもの通学路が急に色んな何気無い思い出を映像として透けてみえる、という、走馬灯、かな?みたいな。

でも私には特別な思い出なんてない。むしろ電車通学は嫌なことばっかだし、学校遠いし、友達とTHE青春みたいなことも、バカやったなあ、なんて思い出も微塵もない。かといって真面目だったわけでもない。ほんと中途半端で情けないくらい惰性的で、悲しいくらい一生懸命だった。

家に帰りたくなくてちょこちょこと帰り道をちょこちょこ幼稚園児より遅い足で歩いたこと、学校が嫌で他人に顔を見られたくなくてマスクをずっとしてたこと、いいことも勿論あったけど、正解がないから私はまだ保留、にしてしまう。

 

きっと私が頑張ったって満足して思えるまではいいことはぜんぶ保留になるんだろう。なんて面倒くさい性格だろう。

 

わたしは蝶が好きになった。なんて綺麗、あの儚さと存在感にため息が出てしまう。来世は猫になりたいけど、無理だったら蝶になりたい。ブルーの、いろの透けてるあの羽が光を吸い込んで私だけの羽で空と舞うのだ。

 

0か100かの人間だから、私はいつも50だったり40だったりでちょうどよく持ってる力を調節して使う、という精神的な観念的なペース配分がド下手くそだ。直そうとしたが無理だった。

だからもう、諦めた。私は前向きなネガティブ人間だから。諦めて、無いなら、ない、で違うところからそこに到達するものを捻出するだけだ。

後ろ向きなポジティブより効率も良い、素敵でしょ

今頑張ればいいのに、その今を頑張ることが出来ないのは何故だろう。何のせいにも誰のせいにもできない、してはいけない、という世界に、つまんない大人の世界にもうすぐ旅立つというのに。このままだと、とって喰われることもねぇな!私は消費する側でしたくない。消費される側になりたい。おいしく食われたいんだよ!!!劇薬みたいにバーンって音を立てて食べた全員をおかしくさせて、面白くしたいな。できるかな、無理かな、無理でもしたいな。歳をとることで無条件で得るのは願望と現実がどんどん膨らんで自分の前にありありと形を現して浮かび上がってくることなんじゃないかと思う。自分の影みたいに引っ付いてくるから多分拒否るのは不可能だ。

 

つまんない大人、と言ったけれど、じゃあ子供は面白いのかって聞かれたら全然面白くないよ。子供は無邪気で故に残酷だ。自然の猛威を手のひらサイズにしたら子供の中身の素になる気がする。理由なんて単純で、まあ何事も単純視すれば単純になってしまえるのだけど、単純って素晴らしい。それを普通にやってのける子供はやっぱり恐ろしい。でもみんながみんな面白いなんて、私は思えないから私の問題なんだろうね。人間は好きだけど、きみのことは好きじゃないよ。年令なんて目に見えるところでしかはかってないただのしょうもないものだから。私は無視してそこから飛び越えて気にするのをやめた。

 

私はこの一生を、猫のように蝶のように、すやすやひらひら舞って自由気ままに生きれたらなんていいのかなって思う。それが出来る人といたい。それも自分勝手な話なんだけれどさ。私の好きに壊して、私の好きに付け足して、私の好き勝手につくってもいい小さなかわいい箱庭で私の場所で世界を見下ろしたい。想像するだけも幸せだ。